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by watanabe-toyonobu
| 2010-06-04 21:14
| 蝶の話し
話題が一見「金城研究」から離れそうだが、実は哲夫さんもチョウが好きだったらしい。
モルフォとか、『怪奇大作戦』では「人食い蛾」で、鱗翅目というセリフを書かれている。
鱗翅目は、今はチョウ目になってしまった。味気ない。
また、キャメラマンの稲垣涌三氏も昆虫がお好きだったらしい。
そして、俳優の岸田森氏は、有名なチョウ愛好家である。
彼は屡、沖縄へ訪れた。
当時、金城哲夫さんは、弟さんを中心に南部のビーチで「竜宮城」というレジャー施設を父親と共に運営、
哲夫さんも手伝ったりしていた。その浜川御嶽へ岸田氏も採集に行かれたという情報もある。
そして、関係ないが、ここの住人の渡邊豊信氏から2010年5月30日に安曇へ希少種であるオオルリシジミを観察、その画像が送られてきた。
当日の天気は晴れ時々曇り。
オオルリシジミとウスバシロチョウ(ウスバアゲハという名称は好きではないと渡邊)を紹介。
これから金城さんとチョウの画像を交互に紹介したい。
まずは携帯画像からで、明日はメモリー画像を送信するという。
モルフォとか、『怪奇大作戦』では「人食い蛾」で、鱗翅目というセリフを書かれている。
鱗翅目は、今はチョウ目になってしまった。味気ない。
また、キャメラマンの稲垣涌三氏も昆虫がお好きだったらしい。
そして、俳優の岸田森氏は、有名なチョウ愛好家である。
彼は屡、沖縄へ訪れた。
当時、金城哲夫さんは、弟さんを中心に南部のビーチで「竜宮城」というレジャー施設を父親と共に運営、
哲夫さんも手伝ったりしていた。その浜川御嶽へ岸田氏も採集に行かれたという情報もある。
そして、関係ないが、ここの住人の渡邊豊信氏から2010年5月30日に安曇へ希少種であるオオルリシジミを観察、その画像が送られてきた。
当日の天気は晴れ時々曇り。
オオルリシジミとウスバシロチョウ(ウスバアゲハという名称は好きではないと渡邊)を紹介。
これから金城さんとチョウの画像を交互に紹介したい。
まずは携帯画像からで、明日はメモリー画像を送信するという。
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by watanabe-toyonobu
| 2010-06-04 20:41
| 蝶の話し
金城哲夫氏(以下、金城)は、父親が東京の獣医学校に通っていた関係で、両親が東京に在住中の1938年7月5日に出生する。(その為、東京生まれである)
直ぐに沖縄へ。(生まれ育ちは沖縄、である)…(一部修正:2010.10.4)
第二次世界大戦も幼少期に体験。
中学までは実家にある沖縄で過ごす。
中学卒業と同時に東京の玉川学園高等部に入学。玉川大学で、恩師の仲介で円谷英二特技監督に師事する。
円谷監督の紹介で、関沢新一氏に脚本の書き方を習得する。
卒業後も円谷特技研究所の一員としてシナリオを勉強。
1961年から1963年にかけて、沖縄で「吉屋チルー物語」を製作・脚本・監督する。
続いて、1963年4月に発足した円谷特技プロの初代企画室長となる。
そして、同年5月から沖縄で「沖縄物語」を共同で制作。
戻るが1962年に「絆」でTV脚本家としてデビュー。
1964年は、「月曜日の男」、「こんなに愛して(生田直親氏との共同)、「いまに見ておれ」の共同脚本担当。
1964年から「WoO」と「アンバランス」の企画、シノプシス作成などをSF作家クラブの協力ですすめる。
前者は頓挫するが、後者は同年の秋から撮影がはじまった。
これが1966年放送開始となった「ウルトラQ」である。そして「ウルトラマン」「ウルトラセブン」と傑作をものにしたが、事情で帰沖。
沖縄では家業を手伝いながら、テレビ、ラジオの仕事、沖縄芝居の脚本・演出を手掛ける。
1975~1976年の沖縄海洋博覧会では式典の演出や広報、沖縄館で上映された「かりゆしの島」
の脚本・構成と吉田憲二監督との共同での演出を担当する。1976年2月26日、惜しくも事故にて他界する。
(担当・渡邊豊信)
同氏を偲び、2008年7月5日に金城哲夫氏のラジオドラマ「噴煙」をシナリオ通りに大和口でリメイク。
音だけでは、と思い、墨絵の紙芝居方式で制作。声の出演は、「ウルトラ作戦第一号」にノンクレジットでゲスト出演した松本嘉臣氏と劇団シアターウィークエンドの面々である。
墨絵画像が、渡邊氏(以後、渡邊)から届いたので紹介する。
直ぐに沖縄へ。(生まれ育ちは沖縄、である)…(一部修正:2010.10.4)
第二次世界大戦も幼少期に体験。
中学までは実家にある沖縄で過ごす。
中学卒業と同時に東京の玉川学園高等部に入学。玉川大学で、恩師の仲介で円谷英二特技監督に師事する。
円谷監督の紹介で、関沢新一氏に脚本の書き方を習得する。
卒業後も円谷特技研究所の一員としてシナリオを勉強。
1961年から1963年にかけて、沖縄で「吉屋チルー物語」を製作・脚本・監督する。
続いて、1963年4月に発足した円谷特技プロの初代企画室長となる。
そして、同年5月から沖縄で「沖縄物語」を共同で制作。
戻るが1962年に「絆」でTV脚本家としてデビュー。
1964年は、「月曜日の男」、「こんなに愛して(生田直親氏との共同)、「いまに見ておれ」の共同脚本担当。
1964年から「WoO」と「アンバランス」の企画、シノプシス作成などをSF作家クラブの協力ですすめる。
前者は頓挫するが、後者は同年の秋から撮影がはじまった。
これが1966年放送開始となった「ウルトラQ」である。そして「ウルトラマン」「ウルトラセブン」と傑作をものにしたが、事情で帰沖。
沖縄では家業を手伝いながら、テレビ、ラジオの仕事、沖縄芝居の脚本・演出を手掛ける。
1975~1976年の沖縄海洋博覧会では式典の演出や広報、沖縄館で上映された「かりゆしの島」
の脚本・構成と吉田憲二監督との共同での演出を担当する。1976年2月26日、惜しくも事故にて他界する。
(担当・渡邊豊信)
同氏を偲び、2008年7月5日に金城哲夫氏のラジオドラマ「噴煙」をシナリオ通りに大和口でリメイク。
音だけでは、と思い、墨絵の紙芝居方式で制作。声の出演は、「ウルトラ作戦第一号」にノンクレジットでゲスト出演した松本嘉臣氏と劇団シアターウィークエンドの面々である。
墨絵画像が、渡邊氏(以後、渡邊)から届いたので紹介する。
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by watanabe-toyonobu
| 2010-06-04 20:24
| 金城哲夫
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by watanabe-toyonobu
| 2010-06-03 19:48
| イベント
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by watanabe-toyonobu
| 2010-06-02 18:00
| イベント